西郷隆盛銅像
幕末・明治維新で活躍した西郷隆盛の像です。
安藤照氏によって制作され、昭和12(1937)年5月23日に設置されました。銅像は台石を含むと約8mにもなります。
西郷南洲顕彰館(南洲墓地・南洲神社)
西郷南洲顕彰館は、南洲公園内にあり、西郷隆盛をはじめ明治維新の先覚者たちの偉業を伝える資料館です。西郷隆盛の遺品やジオラマなどを展示しています。
同じ敷地内には西南戦争の戦死者が埋葬された南洲墓地(正面に西郷隆盛、右手に篠原国幹、左手に桐野利秋などの墓が並び墓地全体では749基の墓石があり、2023名もの人々が眠っています。(出典:「鹿児島市の史跡めぐりガイドブック-四訂版-」鹿児島市教育委員会・平成11年3月発行)一部抜粋)、西郷隆盛が祀られた南洲神社もあります。
西郷隆盛終焉の地
明治10(1877)年9月24日、西南戦争の最終末にあたり、西郷隆盛以下彼に従った幹部が自刃ないしは戦死したところとして貴重な遺跡となっています。
南洲祠堂常設委員長であった山本徳次郎は、そこに建てられてあった記念碑及び敷地を公園付属地として鹿児島市に寄付しました。
この地が、西郷南洲の終焉の地であることは、この記念碑によって明らかとなっています。
記念碑の碑文には、「丁丑之役交戦数か月、薩軍日州長井村の重囲を破り、連戦数回鹿児島に帰り城山に拠る。時に9月1日、官軍従ってこれを囲む。これよりのち、激戦虚日なし。同24日の未明、官軍衆を悉くして迫る。翁すでに決するところあり。諸士を卒いて城山を下る。弾丸雨下半ば途に殪る。翁ついに岩崎谷口の砲塁を擁して自刃す。年51歳。桐野利秋、村田新八、桂久武、池上貞固、別府景長、辺見十郎太、その他悉くこれに倣う。今この碑の立つ所、これ、その終焉の地なり。いずくんぞこの旧跡をして煙滅せしむるに忍びんや。ここにおいて、有志相謀り石碑を建てもって永く記念となす。明治32年9月、これを建てる。」とあり、西郷隆盛終焉の概要を伺い知ることができます。
(出典:かごしまデジタルミュージアム)
島津家第28代薩摩藩主。41歳で薩摩藩主になると藩政改革をし、藩の富国強兵策を率先して強力に実行しました。やがて薩摩藩が維新の原動力となるエネルギーは、この時に培われたものといえます。西郷隆盛や大久保利通らを登用するなど、人材の育成にも努めました。
名勝 仙巌園(磯庭園)・尚古集成館
万治元(1658)年に島津家19代当主・光久が構えた別邸です。桜島を築山に錦江湾を池に見立てたスケールの大きな借景庭園で知られますが、島津家や薩摩の歴史を伝える貴重な史跡も点在しているので、園内を散策するのも一輿です。また、季節に合わせてさまざまなイベントも開催されており、いつ訪れても楽しめるスポットです。
旧鹿児島紡績所技師館(異人館)
慶応3(1867)年、薩摩藩によって、日本最初の洋式紡績工場である鹿児島紡績所が建設された際に、その工場の指導者として招へいしたイギリス人技師イー・ホームら7名の宿舎として建築されたもので、幕末・慶応から明治初期における洋風建築(住居)として極めて貴重な建造物です。建物は国の重要文化財、敷地の一部は国の史跡に指定され、現在は「明治日本の産業革命遺産 九州・山口と関連地域」の構成資産として世界文化遺産登録を目指しています。
建物は、明治15(1882)年に鶴丸城跡地にできた県立鹿児島中学校(後の第七高等学校造士館)の本館として移転され、教官室として利用されていたものを、昭和11(1936)年に七高造士館の本館が完成したため、現在地に再移築されたものです。その後、昭和56(1981)年に、瓦の葺き替えをはじめ内・外装の修理、平成21年(2009)年~平成22年に耐震補強工事、平成23年に展示整備を行い、現在に至っています。
維新ふるさと館
幕末の薩摩と明治維新の全てが一目で分かる歴史観光施設です。多彩な演出で2本のドラマが楽しめる維新体感ホールをはじめ、篤姫コーナーや郷中教育体感コーナーなど、テーマごとに資料を展示しています。
鹿児島県歴史資料センター黎明館
原始・古代~近・現代までの鹿児島の歴史や民族、工芸、美術などを紹介する人文系の総合博物館です。薩摩藩主・島津氏の居城・鹿児島(鶴丸)城の本丸跡にあり、当時の姿で残る濠、石垣、石橋などは鹿児島県の指定史跡となっています。
薩摩ガラス工芸
島津斉彬公の時代に発展し、昭和60(1985)年に復元された薩摩切子の製造工程を見学できます。職人たちの高度なカット技術や色とりどりの美しい作品は必見です。隣接の磯工芸館などで購入できます。
歴史ロード"維新ふるさとの道"
甲突川沿いの緑地帯に整備された歴史散策スポットです。武家屋敷や西郷隆盛・従道誕生地、大久保利通生い立ちの地など、薩摩の偉人を輩出した加治屋町で、歴史に想いを馳せながら散歩を楽しむことができます。
炭がま跡と炭がまの碑
江戸末に日本の近代文明を開く先がけとなった藩主、斉彬は、集成館事業をはじめ蒸気船や大砲などをつくりました。この時、大量の炭が必要となりましたが、そのころは石炭も少なく、品質も劣っていました。そこで、木炭を使うことになり、木炭製造の先進地紀州(和歌山県)に、奉行山本藤助などを派遣し、製法を研究させました。
そして、木炭に適したシイ・カシなどの常緑樹の多かった寺山に三ヵ所の炭がまを作り、大量に木炭を製造しました。その木炭の種類も、火力の強い白炭を焼いたといわれ、ここでつくられた質のよい木炭は、集成館事業の大切な動力源となり、反射炉で鉄をとかすために利用されただけでなく、ガラス製造、陶磁器製造などにも使われました。
現在、炭がまは1ヵ所だけ残っています。高さ約2メートル、直径5、6メートルで、まわりの壁は石で築いてあり、実に大きく、がんじょうにできています。おそらく全国でもこのように歴史が古く、また大きいものはないだろうといわれています。
また、炭がまの前には、安政5(1858)年に立てられた石碑があり、薩摩の有名な歌人、八田知紀の書いた炭がまをたたえる文が刻まれています。日本の木炭史に残る貴重な炭がまといえます。昭和52(1977)年、市の文化財に指定されました。
また、平成25(2013)年、国史跡「旧集成館」に追加指定され、「明治日本の産業革命遺産 九州・山口と関連地域」の構成資産として世界文化遺産登録を目指しています。
(出典:「鹿児島市の史跡めぐりガイドブック-四訂版-」鹿児島市教育委員会・平成11年3月発行)
坂本龍馬新婚の旅碑
慶応2(1866)年龍馬とおりょうは小松帯刀邸や霧島を訪れました。これが日本の新婚旅行のはじまりといわれています。
銅像は中村晋也氏によって制作され、昭和55(1980)年2月28日に設置されました。